この部屋にはテレビがない。

アホなわたしは知らぬ間に時間を失うし、うるさいので置かない。

インテリアは結構なイタリー尽くし。

この机もMAXというKartellの白の長い方で、確か十万円超えるぐらい、

椅子はエレガンスという美しいイタリアンレッドの布張りで六万円ぐらい、

背もたれの小さな椅子に座って

日々このDaiaryNoteを書きます。

実は、静岡で作られている「アベニュー」という二十万円の

素晴らしく座り心地の良い(至福の時間ですよ)ソファーを見つけて

革のイタリアデザイナー製へのこだわりが微塵も無くなりました。

機会があれば、初めに両親へプレゼントする予定です。

人生は一度きりだから

自分の気に入った好きなもの、

良いもので一緒に時間を過ごしたいから

欲しいものだけを買うようにしています。

わたしも、きっと息子も、この部屋が好きです。

死んだらお金は使えないし

お墓に持っていけないし。

なんとでも折り合いがつくもんね。

「お金がない。お金がないからできない。買えない。」なんて思えば

何もできなくて

気持ちが足りないことが多くて

そう、資本としてお金は

求める心に正比例して付いてるかもしれない。

何事にも。

生活上手な欲張りになりましょう。
14日からフランスのピレネー地方に飛ぶ。

 まぁ、人間の本質は何処に行っても偉くなっても変わらない、とわたしは考える。

 ただひとつ、わたしが息子に伝えたいこと。

 何処に住んだって何時だって、
自分を育てるのは自分しかなくて、
その答えは、その胸の中にある。これだけ、知って欲しい。
 
 だって、いくら良い環境に置かれても自分と向き合えなかったら、同じなんだもの。 
 確かに環境の質が良いとして、人生のあらゆるスカが減るかもしれない。
 たとえば、個性が大いに活かされる職業とか、出逢いで生かされるとか、
生活のレベルが上がったり、豊かさが増すことはあるんだけれど、
 人間の資質は、北極にいようが南アフリカにいようが
東京の世田谷に住んでいようが変わらない。
 芸能人だろうが社長だろうが、
漁師や農家だろうがダメな人はダメ。
がんばれる人は環境がどうであれ、がんばれる。 
品のない人は、お金持ちになっても品は買えない。
 
 結局のところ、自分を知ることが幸せの道の始まり。

 そして、自分にぴったり合ったニーズを知ること。
心の底から、自分の幸せを求め続けること。
中途半端は、とどまるところを知らず死ぬまで走る。

 その憧れは憧れでいいんだけど、
あなたに必要なものとは、違うかもしれない。

 赤が似合わないのなら、赤を諦める。
それも、気持ちのいい勇気だし。
 今は手に入らないけど緑が一番似合うなら、
その道筋を考え、しっかり手に入れる。 

 だから、自分に必要なチャンスをモノにできるとか、
そういうことも変わらない。
わからない人はチャンスさえ、気がつかないでいるかもしれない。

 今のわたしは自分が欲しいものだけ、欲しい。
余計なものは、いらない。
近寄りたくもない。
手や目に余るものは、いらない。
ただの時間潰しは、したくない。

 二十代は、無駄や遊びがあって初めてわかることも
多かったのだけれど、ね。
 年代年代の生き方があるわけで。

 編集が午前中いっぱいで一段落、業者の校正を待っているとこ。
ようやく、旅行の準備ができる。

 ゆうべは、また日記が消え失せた。
このドジが悪いんだけれど、まったく愕然と、がっくりする。

 それでも、一週間前の月曜日に
県立病院のトイレに置き忘れて、
失くしたつもりのローデンストックのサングラスが
今夜、手元に戻って来たので大変嬉しい。
こんなに生温かいと、
ここはまるで、大きな女性の子宮の中にある小宇宙なんじゃないか、と考える。

地球上から、蝋燭が消えるように次々と命が消え続ける。
次々と新しい命が産声を上げ、誕生していく。

そう思うと、
まるで自分が、この頃道端にカサコソと転がる一葉の葉に思えてくる。

この木がつけた葉が、人間の命のひとつひとつ。

一年一年の季節で精算される、一生の時間の流れ。

冬の太陽は、目に痛い緑が芽吹く春を待って燃える。

白く静かに、自分の地球を温めている。
 四月から一日も止まない、耳鳴りに犯されているが
まだ、音楽も声もしっかり聞こえるからいい、と思う。
まだ、目が見えるからいいかな、と思う。
口は思うように、話すこともできる。
こうやって日記を書いて、
あなたに読んでも
もらえる。

 人生は思っていても、行動しなければ転がらない。
結べない。
高まらない。

 勉強にしても、
仕事にしても、
愛し合うにしても、
強く念じているだけで動くのは、
奇跡の石が1mmだとか
スプーンが曲がるエンターティナーぐらいのもので、

自分の生活を充実させるには、
きれいな表現ではないけれど
結局のところ「やった者勝ち。」なんだ、と思う。

 うちの母は生真面目で、几帳面でうるさい。
自分の流儀を外せない。
いくら体調が悪くても休まず、泣きながら働く。
止めて、と誰が言っても止めれない。休めない。
彼女は、その性分からひどいリューマチになった気がするのだが、
我儘な父の帰る場所が汚いことは、一度もなかった。
父のためのおかずは、いつも六品か七品並んでいる。

うちの両親にも離婚の危機があったのだけれど、
単純なところ、父の状態がどうであれ
影響を受けず家事を放棄しなかった
そういう母の行動が家庭やカップルを支えたのも
事実だなぁ、とこの頃思う。

もしも、やる気をなくして
家が汚れ続けていたらダメだったかもしれない。

もう、五分で本当に「他界」だと知る。
わたしは、「ありがとう。」という言葉が浮かぶ。
多少遣り残したにしても、自分の人生に満足したい。

あ、やっぱり。
「もう、五年は生きてもいいですよ。すみません。順番を間違えました。」
おお。ラッキーじゃん。

そうしたら自分がやれることを、
無理なく上手に
気持ち良く、どんどんやりたい。

 昨日会った歴史家は、わたしにこう言った。
「ねえ、楽しいぐらいじゃなくちゃ、ダメなんだから。」

あなたは、どう動く。何を始める。
命あることはそれだけで美しい、と思う。この頃の話し。

 そこに宿る情熱がキラキラと燃えて見える瞬間は尚のこと、美しさを感じる。

 性別に関係なく、何歳であっても、どんな顔立ちでも、
この世で天命をまっとうしようと、その姿は健気で大好きだ。

 夏の終わりの線香花火は、盛りを過ぎて枯れに向かうシーズンの雰囲気も手伝って、人魂の如く一生を感じさせる。

 火薬の多さは、それぞれ違う。

 勢い良く、最後まで元気良く燃え尽きれるもの。

 初めから最後までポショポショと、儚げで長いもの。短いもの。

 初め細く、後半に幾ばくバチバチがんばるもの。

 火薬の重さに耐えられず、ジュッと落ちてしまうもの。

 わたしの人生は、一体どうだろう。その半分を折り返した。
 
 やはり夢を叶えたい。何とか上手に長く燃やしていこう。
さて、何か物事を本当に成し遂げようと思ったら
巡り合わせの不運だの不幸だのに思いを馳せらす暇はなく、
他人の一瞬の言葉や刹那な態度など、
まともに買っていられない。

 日々、いろいろな人にあって、いろいろなことが起きる。
どういうベクトルでシフトをしていても、
人間の持つ「情熱」こそ、かけがえがない。
年齢は関係ない。人材こそ、全てだ。
ところが、情熱があっても自尊心が低いひとが多く、
不燃焼だ、と思う。

 そういうひとは、依存心も高い。
自分の大事な人生なんだから責任も取るわけがない誰かに依存しないで、
と言いたい。

 わたしは言いたいこと言う。怒ることも、多々ある。
いけすかない「癖」に出くわすことも、ある。
 だけど、いま巡り合わせた人材で勝負しなくてはいけない。
近くに寄り添う相手の気持ちは切れない。もったいない。
受け入れの「沼」というか、「湖」みたいな部分を持たなければやっていけない。
自分と相手の縁をベターに長く活かそうと思えば、
いつも正直過ぎる鏡では、いられない。

 お互い選べない運命共同体というか、
「仲間」という情から「しなり」も生まれるので
心的態度はとても大切だ、と思う。

 口からついて出る、その「言葉」は生きている。
 
 今週は頑張らなくてはいけない。
地元の新聞の編集がある。対談もある。写真を撮る。記事を書く。
 
 明日は、フリーマーケットに出る。これから、準備をする。
渡仏することもあって、なるべく荷物を減らしたい。

 生理が10日遅れている。いまだ、かつてない。
 彼に話したら、
「Chatで妊娠したのかよ、おいおい。」と、笑った。

 どこに、行ってしまったんだろう。心配だ。
亡くなった友人は母ひとり、子ひとり。

お母さまは激しく泣き続けている、と

葬儀の後の弔いに出て欲しい、と今夜仲間からの電話があった。

二十歳のときのバイト仲間で、

東京都内四車線を走るバイクで死んだ

当時22歳の彼も、ひとり息子だった。

大学四年、官公庁の就職も決まって

次へのオフタイムでの死だった。

その、若い人が夥しく溢れる告別式で

お母さまの泣き叫び、その呻く嗚咽は、特に痛々しく

老衰で亡くなった、隣の葬儀との差が激しくもあって

場が、特に「非情」だった。

まず、若くして、親より先に逝くのは罪だ、と思った。

悲しかった。泣いた。

あまり泣いて、当時の彼に冷やかされた。

「まるで、自分の恋人でも亡くなったみたいだね。」と。

わたしたちは、別れた。

ただ、セックスで結びついている必要はなかった。

しばらくの間、深く考えさせられていた。

バイクの免許を取ろうと思っていた矢先でもあり、

この予想外のアクシデントを重く受け止め、諦めたのだ。

だから、あまり悲しい場に行きたくない、と

今回の弔いへの出席は、小さく断った。

悲しみに明け暮れるお母さまを、見て泣きたくない。

できることなら、

親より先に、逝くべからず。

我が子は、大きな大きな玉石の喜びで悲しみで

涙と感動を増す。人生を重く複雑に高める。

命は買えない。

あなたの存在の代替は、ない。

できることなら、長く生きていこう。
 この頃、ずっと思っていることがある。

人はいろいろな感情を抱くわけだけど、たとえば。

相手を許せない人は、自分をも許さないと思うし

信じない人は、自分すら信じていない。

物事の結果は、まず第一に他人のせいだ。

失礼な人は、自分にも失礼なんだと思うし

自分を大事にしない人は、他人を尊重しないから

相手なんか大切に、しない。できない。

 自分の感情がたとえば、相手に向けられていても

それは化けることなく自分に向くときの力と同じなんだ、と。

寸部の狂いなく、そう思う。

 まさか、他人のように汚い言葉で批判をする。

しかし、それは自分自身を深くナイフで切り刻んで見える。

その空気に、言葉を吐く者の血が滲んでいることに

気づいて離れる人は、とても少ない。

答え

2004年6月21日 生きるために
人生の答えは、自分の胸の中にある。

 どれも、これもだ。物事が上手くいかないときも、ある。何か原因がきっと、ある。他人の言葉や行動が、深く影響することも勿論、ある。でも、心的態度は全て自分で選べるはずだ。

 たとえば喜んで、側にいる。状況を考えて、行動を決める。物事の結果の因果に、多くの人間の癖や生き方が含まれても、自分の選ぶ道に自分で答えを求めて、出して、責任を持って生活を送れれば、誰のせいにすることもない。

 振り返ってみても、爽快でいたい。

 デートで、色々な話を毎晩した。午前様だった。イラクのことから母乳の搾乳まで、時間が足りなかった。寝不足で、耳鳴りがひどい。眠らなくては、いけない。

 彼は、わたしのMAXだ。最高になった。

しなり

2004年6月8日 生きるために
純粋な人間と暮らす。今夜は取材で、老夫婦にあった。

 まるで、結晶のような純粋さ持つパートナーを見守るのは、大変だ。純粋な人間は、角ばって見える。丸く掃いていい、なんてことがない。

 付き合う人間は、簡単に掃けない事を知って、少し面倒だな、と感じるかもしれない。だが、そのこだわりがあって初めて、社会にとって貴重な存在とも言える。純粋だからこそ、感動が起きる。与えることも多い。人の心の弾力を突く。

 しかし、無理を通せば道理が引っ込む。ひとりで生きる人間は、いない。何かしら、他人と関わっているはずだ。いくら純粋でも、バランスが大事だ。大きく引いて、状況や物事を見てみる力が無ければ、単純に嫌われてしまう。それでは、人材がもったいない。

 相手方は無闇にぶつかって、にっちもさっちもいかず、お互いの気力を落としても仕方ない。流せることは知らんふりしてあげられる器量がなければ、ただただ大変だろう。

 お互いに気持ち良く生きる時間を増やすには、出る引く出る引くの柔らかさがあって初めて、個人の尊重につながって長く深い愛情につながっていくのかもしれない。

 
 

点と線

2004年6月1日 生きるために
昨日は予定通り心臓の専門医に診てもらい、24時間心電図か何かお弁当箱みたいなものを、さっきまでつけていた。最近は一週間ごとに血液検査と称して血液を採取している。検査は、結構お金がかかる。

 今回は、大小ハーフ丈の試験管に5本ぐらいに採った。血管炎症度をまずみよう、とDrが言った。もっと、早く総合病院の内科を受診すべきだったかもしれない、と思った。

 ところで、血液を採取しながら年配の看護婦さんと話が弾んだ。名刺を求められたので、簡単にあげた。それが、今朝早々に電話があり、お茶を一緒に飲もう、という。何だかキナ臭い。

 「宗教やら化粧品、なべ、布団の話なら会議もあるし忙しくてお断りですよ。」と、わたしは言った。「そんなんじゃぁ、ありません。人間として個人的に非常に興味が湧いたんです。田舎にこんな華のある方がいるのか、って思って。」と、言った。仕方ない、お茶の約束をした。

 病院で検査器の取り外しが終わり、約束の場所へ。美味しいコーヒーが好きだという。でも、近くにあったのは「SBC」。今の世の中をどう感じるか、というので色々と話した。妙に質問が多かったのだが、わたしは答えに窮することって、ないタイプ。たとえば、面接も長くなる。自分の目で見てきた自論と哲学を話し続けることに限っては、かなり迫力があるらしい。その真摯な表情がキレイだと、政治家に向いてる、と言われる。笑っちゃう、全然興味がない。

 独身のせいなのか、彼女は58歳という年齢の割りに精神的に成熟せず子供じみていた。話の中盤で、地方紙と本を出した。これを読んでみて、と差し出したのものを見遣ると「日蓮だいしょうにん」とかなんとか。まじめに見てないので、覚えていない。

 くそ、やられた。あきれた。時間をどぶに捨てた。参った。「しまってください。」と言ったら、5年後に日本は全滅、滅亡する。あなたを救済したい、と言った。滝に打たれて来い。まったく。

 宗教に溺れている。しかも、心的態度が悪い。まず、基本的に自分を理解しない人間を恨んでいる点が強かった。あれじゃあ、一丁前にならないだろうなぁ。

 3歳から80歳までの色々な人間が理解できるような態度をとれるよう教養を身につけて、時々は片足を外さないと真理が見えませんよ、話した。何のことやらさっぱり、わからないみたいだったので、「まぁ、いいです。幸せになってください。」と、別れた。

 物事は、「点」で見ても、一面から量っても仕方ない。どちらかと言うと、ライン「線」がわかる、それを引く、多面で捕らえることの方がとても大事だ。

 浮き輪を投げたが、彼女には見えないようだった。溺れるものの、水難救護は難しい。
「もう、間違うなよ。」同僚の男性に言われた。彼はやさしいことで、年代を問わず女性に定評がある。会社のリフレッシュコーナーで、昨日からの「ときめき」の話をしたら、戒めるような顔つきで、祈るように最後にこぼしていった。

 息子が一歳になってすぐ、離婚した。

 最後は、何もできなくなった。家庭裁判所で「わたしも幸せになりたい。息子のことも幸せにしたい。あなたも、本当に幸せになって欲しい。」と、最後に話した。彼はもらったケーキを子供に分けない不思議な大人だった。息子におもちゃのひとつも買わなかった。それに何か理由があったのか、どうしてかはわからない。想像もできない。

 大して深く付き合うこともなく、見合いのように結婚した。はじめから最後まで、わたしは深い愛情を感じることができなかった。感じたかった。そして、軽い記憶障害を起こしていた。相談できず、不安が心身を埋め尽くした。

 いろいろなことを経験して、わかることがある。

 子供を産んで世界が広くなった。離婚をしてカップル、パートナーの本を読み漁った。日本にだって、大手を振ってふたりが駆け込めるカウンセリング機関があれば、まだまだ上手くいくカップルも多いかもしれない、と思った。体調が悪いことで、やさしくなれたこともある。長い病気もしなかったら、病で不安な人の気持ちに近寄れないで、のほほんとしていただろう。

 誰もが好んで経験する必要など、ないことだ。でも、痛みをともなう経験もプラスに転じれば、流した涙も全てダイヤに変わる。
今朝、出掛けに玄関先でカーラーと孔雀草などの大振りな花をいただいた。彼はいま、72歳。既婚で、とても奥様と仲良し。でも、時々手紙やお花、北海道で採れた昆布をわたしにくれる。

 自分が過ごす部屋や居間に生花を絶やさないようになって、一年が過ぎた。造花でないから、この美しさを楽しめる時間が限られる。花が、床に落ちていく。萎れ、必ず枯れる。この花々も、ひとつの小さな小さな種から伸びてきたのだ。美しい花が咲き、枯れて、その一個の種の時間が終わる。

 わたしたちも元々は、とても小さな人間の種。三歳の息子が起こす癇癪を見ていると、持って生まれた「心の種」がウズウズと、動いているようだ。人間の「癖の玉」というか、なんと言うか、、、。

 わたしのカラダの方は、ぐんぐんぐんぐん伸びて約171センチ。「こころの種」からは、一体どんな花が咲いたのか、これから咲き続けるのかはわからない。けれど、自分の心に埋まっている種は芽吹かしていきたい。若さは、それだけで素敵だ。でも、誰だって老いる。死ぬまで、心は美しく咲き続ける。それがセンスなんだ、と思う。

 昨夜、リュウマチの母がTVで歌う松田聖子を観て「聖子ちゃん、かわいい。」と、呟いた。
 ここには雄大な山がふたつ、そして日本海がある。この山々は冬にデットゾーンと化し、また、海はポセイドンの怒りのごとく荒れ狂う。しかし、時に人を癒し包み、その出入りを許すのだ。

 わたしはこの「山と海」に、魂から憧れる。自分も、こんな風でいたい、と心から願う。幾ら雑然とする人間社会の日常的で起こる摩擦に遭っても、人間に媚びないでいたい。このまま無骨で、やさしく厳しく、時に崩れる姿も隠すことなく、悠然と胸から響いてくる太い声に従い、自分らしく生きる姿を堂々と持っていたい、と強く思う。

 動物でいうと、昔から「鯨と象」が大好きだ。彼らを深く深く愛する。大らかでやさしげ、ゆったりとして、カタチが不変で太古然、瞳がやわらかい。そう、あんな風でいたい。

 ただ今、宇宙に浮かんでいる星にいて、地球上の日本という資本主義を執る国の、ある家の青い自室で、アイス好きの母が自分用に買っておいたチョコバナナ味のモナ王を盗み食いしながら、この日記をつけている。

 息子が健やかな深い寝息を立て、安らかさが響き渡る。日々反復するような彼の毎日に見えても、急成長する命の勢いを感じさせている。たくさん泣き天使のように笑って、魂の弾力が増す。

 DNAに逆らう術もない人間もまた、神々が残す美しい指紋だ。この命も魂も遺伝子の流れを受ける。お金に負けることは、ない。正しく求めて生きるところに、正しく物事は与えられる。

 上と下がある。右と左がある。物事は、最低二面から量られる。しかし、寸部も狂わず、それはつながっている。小さく必要としているものに、大きく与えられることはない。たとえ、間違いがあっても、正しくろ過され削がれていく。

 追求すれば、やっぱり真理はひとつに尽きるんだろう。

 先日やっとこさ結婚したのに、嘯き浮気をやめない彼は、きっと離婚する。裏切りの香りに、新妻の鼻が痛み始める。昇進を願う彼はタイムリミットまで見込めず、きっと転職する。打算が目立つことを、取締役は心得ている。

 欲張りは、欲張りな匂いを放っていることを知らない。
 今夜は、歓送迎会。お昼に走れなかったため、夜に走ろうと飲まなかった。しかし、帰ってきたら息子が吐いたばかり。青ざめてダウンしていた。まるで生気がなく、ぐったり。今までにないぐらい、悪い。ランニングは、中止。可能なら、眠る前にスクワットしよう。

 昨日のランニングは、走っている途中で呼吸が上手くできなくなって途中で止まってしゃがんだ。走ってなくても、最近よくなる。息が吸えなくなる。これだけでも、4月にはっきりさせたい。

 歓送迎会の席上で、「おまえには、幸せになってもらいたい。」と、年上の男性(既婚)に強く言われた。単純に、嬉しかった。

 良い再婚を願っての「幸せ」という意味みたいだったが、幸せはもうひとつ、あると思う。ひとりでいても、幸せな人間がいい。仕事をしてご飯を食べる限り、いつも温かい二人きりでいられるわけは絶対ないし、病気になることだって長い出張だって、あるのだから。そんなふたりが一緒にいることを楽しめるのなら、いいと思う。

 わたしは自分に生きよう、と思って淋しさが薄らいだ。子供もかわいいし、何かを慌てて埋め合わせるような恋愛も、下手な結婚も二度としたくない。このまま真っ直ぐ歩いて、縁の深い出逢いがないなら、ないでもいい。女性の生きる喜びも加齢が増せば増すほど、幅があると思う。

 神さまへ
 願わくば、深いご縁きり、ありますように!ぱんぱん!!
 出会いは、お互いに「奏でる」という感じもする。
後は、生きる道程に美しい絵画を飾るイメージでも、ある。ご縁がよければ、その絵はふたりの絵筆によって美しく変化を遂げ続け、塗りたぐっても余白が生まれ続ける。惹かれあって、筆を置くことが無い。そういう関係を続けられる喜びは、出会いの醍醐味を知る。感性と言葉の綾みたいなものが通じ合う相手とは、面白い絵を描き続けたい。
 お互いの生活の状況は、加齢によって自分の体調も変われば家族によって常に変化する。だが、まして心は健気に生きる意味を探し求めて、シンプルを極め美しく生まれ続ける。より自分らしい絵の具に近づいていく。
 あなたの歩く道には、何枚のかけがいのない名画と白いキャンバスを残す絵がありますか。

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