Chrysanthemum

2005年11月20日
家を片付けていると
孤独の中で綴られ続けた母の夥しい量のメモが出て来る。
モルヒネであやふやになる意識を繋ぎ止めておくために
矢継ぎ早に聴こえるテレビの言葉を書いたもの、
中には来年以降未来の年齢にある孫にプレゼントしたいものが
書いてあったりするが、どれもこれも暢気なものではなく、
わたしには悲痛な悲鳴を叫び続けた母の淋しい魂の塊に見えて、とても切ない。

IMAGIN

2005年11月7日
なぜ、彼女を助けられなかったのだろう、と
毎日欠かさず母のことを考えている。
「助けて。」と、わたしに手を伸ばし
懇願する声と表情が脳裏に浮かび続ける。
おかあさん、ごめんね。
この世に繰り返される命。こぼれる涙と静かな溜息。
どの命も必ず尽きるのだけど。もっと、話がしたかった。
母はJOHNが大好きだった。

O’Keeffe Poppy,1927

2005年11月2日
卵巣脳腫は、相変わらず3cmのままで
良性か悪性か調べることもなく
特にすることがないので放って置いてください、と
眉間に皺を寄せて禿げ上がった若い医師は言った。
俳優竹中直人の弟か?と聞きたくなるような顔だが
無愛想で言葉が少なく、質問して補うほかなかった。
優秀なドクターは「会話」を学んでいただきたい。どうか。

Etching

2005年10月14日
夜、母の泣き声が聞こえて来た。
どうもそれは抑揚のある母の声音で
ずいぶん長く続いたので、
一体どこから聞こえてくるのか
窓を開けたり
階下に降りたり
お骨を見たり
外に出たりして、音の元を探したがわからなかった。
部屋に戻って椅子に座っても、悲しみに明け暮れる泣き声が小さく続いていた。
ずっと日記が書けなかった。

先月26日午後三時過ぎ、母が死んだ。
朝方から血圧が50ぐらいまでしか上がらず
足先からチアノーゼが始まったためマッサージを続け
冷たい体に吹き出てるイヤな汗を懸命に拭いた。
誰かが呼びかけても、もう応じることができなかった。

その日の正午、突然、深い海の底から一瞬だけポッと浮上したように目が合ったとき
me「おかあさん、夢をみてたの?眠ってたの?」
mum「やっと、死に方がわかった。」
me「どうだった?」
mum「怖かった。」とだけ、話したのが最後のまともな会話になった。

舌根が喉の奥に下がり出しカラダは「死」に向かい続けても
耳は聞こえ意識が高かった。
午後二時「歯磨きしようか?」と言うと頷き、歯ブラシを当てると口を縦横に開いた。
最後の最後まで、生きようとしていた。

彼女の顔に並んだ汗の粒を柔らかいガーゼで拭いてる最中
力尽きるように息が苦しく停止していった。
わたしはナースコールをしながら
口の中のものを嘔吐させようと首を横にひねった。
横を向かせたら、一瞬顔が赤くなり苦しそうに歪んだ。
外来から主治医が駆けつけ、手の脈を取り腕時計を見遣った。
「午後三時七分、ご臨終です。」
約一ヶ月ものあいだ毎分150を打ち続け
ベッドの中でジョギング状態だった心臓が止まった。

わたしは8月10日からの看護の時間で
初めて「母」という人間の素顔を知った気がした。
そして、後悔と反省を繰り返した。
自分の裏側を初めて見るような思いに包まれた。
投げ遣りになってしまう母との対話に迷い、看護の本を漁った。
「どうしても助けて。」と、毎日何度も懇願する母へ
彼女の大嫌いな漢方薬を飲ませ続け、免疫学の本を読んだ。

看護から母の最後までの一部始終を飲み込み
今、わたしは失速し言葉を失っている。
本や新聞にある言葉が、とても美味しい新鮮な生ジュースのように
ただ心に染み渡る。

一年前の今日、わたしはフランスへ旅立った。
帰国後、母の発病入院から
仕事、子育て、家事に追われながら
重い病気の母へ向かおうと、もがき続けた苦しい一年だった。

母の最期が目に焼きついて、日々繰り返され、わたしを打つ。
遺った家族が、それぞれ腹を決めて選んだ宿題を横目に見つめる。
重い瞼の裏に開かれたまま命を閉じた
あの、高い知性を感じる聡明で美しかった母の瞳が
これからどう生きようかと立ち尽くす、この背中を静かに押す。

ISBN:4062566648 文庫 日野原 重明 講談社 2002/10 ¥777

自尊心の基数

2005年8月25日
母の看護は、暗くて孤独な夜が大変だった。
mum「助けて。怖い。」と、繰り返し叫ぶ。
me「大丈夫。何も変わらない。」と、繰り返し言う。
mum「あなた、疲れないの?」
me「うん。だから、自分が心配なんだけどね。」
mum「やさしいひと、かわいいひと。」と、わたしを長く強く抱いた。通常の生活ではあり得ない。母が置かれた状況にあって、お互い心が同方向に寄り添いオープンになっているからこそ、聞けたのだった。子供時代から親よりもらい続けた言葉が創った、心に転がる自尊心の基数が震えた。真夜中の病室の薄明かりにそれは、エメラルドやルビーの原石のように胸の奥底で温かく暗く光って見えた。

切り絵

2005年8月14日
母が12日夕方から敗血症が判明し
血圧が30分単位で下がり出したので
出勤していた父までが呼ばれ
今夜まで病室に寝泊りしている。
わたしがいても二人は病室でしっかり手をつないでいた。
わたしは10日からホテルに息子と泊まり、通っていたが
白血球が20以下になると、幼児はムリで親類に預けた。
今日は、葬式に備え自宅を掃除して来い、と父の指示があって家に舞い戻り、PCを開け日記を書いている。
まだ生きているのに、こんなことをするのは暗くて悲しくて、とても心身に悪い。
死に怯え不安がる母と手をつなぐ父に免じて、山ほどの言葉を飲んで従っている。
妻を失う悲しみに直面している彼を、娘の良心が無用に傷つける必要はない。
早朝、息子の着替えを親類へ届け病院に帰り父と交代する予定。
お盆で高速や道が混んでいるのに、視界不良の大雨が続く。
不安を多く抱いて、毎日怯え続けるより
それを一つでも消すか、早く捨てるように
生きるのが堅実だしモアベター。とはいえ
ベッドに一年近く暮らす母が、三つのフックが浮かぶ
無表情な白い天井を見つめ、
実は自殺を考えていたのだった。
ジーンズからこぼれる、わたしの臍を指で押すので
me「この臍が、お母さんとつながっていたんだよねぇ。」
mum「だから心配なのよ。わたしの娘だから、とっても。」
me「世の中で抱かれる無数の心配なんて、意味がない。」
mum「無性にアインシュタインに憧れるわけ。でも、ほんとはあなたのほうがわたしより早く自殺しちゃうような予感がするんだけど、どう?」
me「後にも先にも、あり得ない。あなた方が刻んだ強い愛に失礼だもの。」
mum「あー、よかった。」と、にっこり。
mum「いま地球って、何歳だと思う?」
me「西暦じゃ言えないよね。」
mum「アインシュタインの相対性理論が近年もっと叫ばれていたなら、核爆発があった60年前に一度”0”だと思わない?わかる?」
me「うん、それで?」
mum「だから、わたしと同じ64歳なのよ。」
me「ふうん。60歳じゃなくて64歳なのね。」
mum「わかってくれる?just a matter♪」
me「わかりる。」
mum「生きてる証が欲しいの。呼吸する勇気も生まれて来ないから。」
me「深刻だね。実はね、わたし半分死んでる。」
mum「わたしのこと?」
me「いいや。自分は、半分生きていて半分死んでるといつも思うよ。
この世にいて母を持ち会話できること自体、稀有でね。」
母は、にっこり笑った。

ハウル

2005年8月9日
ハウルを宮崎ファンの母に見せて上げたい、と今夜思った。
DVD発売、間に合って欲しい。
骨髄癌に侵された祖父が最後のときは、
生きていても意識が戦時中にあり「ソ連捕虜」の中にいた。

明日から看護休暇、スーツケース二個で出る。
仕事やっつけてあきらめて、やっとありつけた感じ。しばらくホテル在中。
息子の保育料がだぶるやら、病院から遠い市になる広域保育やら見通しが立たない。
置いていけ、とも保育あきらめて一緒に行動してな、とも声は多数。
今日は父と一番下の妹夫婦が見舞いに行った。
面会謝絶だった、と父が言った。

ターミナル

2005年8月8日
仕事で帰宅が遅かったため、二日電話をかけないでいたら
土曜日に母から電話が入った。
mum「電話ないと、すごく心配なんだけど。」
me「あ、今すぐ行くよ。」
mum「来るの?」
me「もちろんだよ。」
mum「なら、わかった。早く来て。」
何だか、ずいぶんハイだった。電話で唄う。ふざける。笑う。
ろれつが回らない。おかしな様子だった。
病院へ行って話していても、意識が幾度もうつろになって落ち、返事がなくなった。
mum「もう、こういう状態なの。気にしないでね。いつから来れるの?あした?」
モルヒネを流しっ放しのせいか、理解しても記憶が定かじゃない。
幻覚が見え軽いノイローゼになってるとも言った。
そして、やはり声高らかに唄った。
帰りの高速で、昔、映画でよく観たあれに似ていると思った。
冬山で遭難して、眠り込んで凍死しないよう自分たちを励ますために唄うときの。

これが終着駅に母がいることなのか。
勤務中のふとしたときに、また、毎週往復の車の運転中は必ず涙が落ちて来る。
こんなに悲しい夏は、なかった。
朝から甲高く響く蝉の声すら、地球上の命を削る烈しい時報のように聞こえる。

父の詫び状

2005年8月4日
母が午前四時に電話をかけ、父を病室に呼んだ。
仕事があるから父は寝不足でいけない、と言うのに
どうしても今日会いたい、と言うのだった。
午前二時で眠ったのに、わたしも五時で起こされた。
母にとっての「今日」は、本当にかけがえのない今日だ。
看護師がターミナルと呼ぶ状態にある母のケアについて、
お互いの考えを薄明かりの部屋で、いろいろ話した。
この頃、父の口走る話がまとまらない。
わたしたちは彼女が守り育てた家族だから
やるべきことはまっすぐひとつだろうに。

キャンドル

2005年7月30日
目が覚めた。息子と一緒に眠っていた。
途端に、漠然と、いまの母が、抗がん剤の副作用に
耐えられるのか、とても不安で心配に思える。
ほんとうに大丈夫だろうか、、、。連れて行かれたらイヤだ。
眠らないと、自分の頭が参ってしまう。ドラールを水で喉の奥に流し込んだ。

海辺の家

2005年7月29日
母が来週から抗がん剤を受ける、と決めた。
どのみち治らないなら、死んでしまうなら
どうしたらいいか、わからないと言っていた。
父は、本人の意思に関わらず最後まで治療を望んだ。
わたしは、母の意志を優先したかった。彼女が決めた。
仕事で読んだ源義経の話をしたら、
「義経の本、貸してちょうだい。」と言った。
あっぱれ、インテリかぁさん。辛抱強く読んであげるよ。

海辺の家は、人間臭くて好きな映画。胸が痛い。目に沁みる。
母をDrが「末期状態にある。」と言った。
意識のあるままで連れ出すのは危険過ぎて
母が短時間でも家に帰れないことがわかった。
今は呼吸が苦しくなり、酸素を装着している。
先週末は仕事で疲れ果て、病院市内のグランドホテルに
泊まった。椅子を三つくっつけて、母の病室でも眠り続けた。
母のベッドに息子が入った。喜んで抱き締めていた。
時々、何かを思い願うように彼の手を握り締めるのだった。
気がつくと四時間以上が過ぎていた。
彼女が幸せそうに息子とひとつベッドの中で笑いながら
話しているのを見聞きしていたら起きれなかった。
もう、いまから母の傍にいたい。

アトミック

2005年7月19日
me「今日はどうだった?」と、母に電話で聞くと
mum「気が抜けて、丸一日全然ダメだったの。」と、答えた。
me「どういうこと?」
mum「なんだか具合が悪くて。お腹もときどき痛い。」
三回目の抗がん剤があるかどうか、心配になった。怖い。

2クール経過

2005年7月8日
母のへその周りにある大きな腫瘍が昨日今日と、
激しい痛みを起こしている。母が泣いている。
そろそろ顔が見たい、と切れ切れに言った。あした行こう。

CHASEプラスR

2005年7月6日
6月に投与されたチェーズが効いて
母の命が少しつながった。
効果が得られなければ、もはや治療に意味がなく、
「覚悟」という言葉もDrの口から静かに搾り出されていたが
今週2クール目が終わった。このままうまく進んで欲しい。
体調がいいらしく、母は電話で自分から話題を振って
とても長く話した。「おかあさん、早く帰って来て。急変したりしたら絶対いやよ。うまくね。」
「うん、そのつもりよ。」と。本人はもとより、母の生命力を祈るばかり。

time is money

2005年6月24日
きのう、母の白血球が50。どんどん下がってる。
まさか、カラダに50個しかないなんて。
30cc当たり/50とか。聞いてみよう。
早く上がれ、白血球。がんばれ、血小板。たのーむ。

悪性リンパ腫

2005年6月20日
金曜日、主治医の連絡で病院へ走った。
母について、今回の薬が効かない場合は
対応は緩和療法を選択するほかなく
また、余命らしきものを告げられた。

往復の運転で涙がこぼれた。

<初見>
?非ホジキンリンパ腫
?びまん性大細胞B細胞リンパ腫
?ステージ?
?タイプ:ハイリスク
最初のDrは世界標準の化学療法「CHOP」療法を5クール行った。しかし、一時的に腫瘍が小さくなる反応はあったが、副作用で本人が落とす生命力体力のほうが大きく、腫瘍が大きくなるスピードに抗がん剤が追いつかなくなった。4/28余命一ヶ月と告げられ、治療存続可能な病院とDrを当たった。

5/9転院後、生検を再度行った。新しくCD20が認められたが、病気に対する見立ては大きく変わらなかった。新しいDrは5/17〜21「ESHAP」を胸から5日わたって投与。白血球は最低値で180まで落ちた。一ヶ月を1クールにして、その中での一週間半、母は落ち着いていた。お腹にたまる水が抜け、体が半分に見えた。

しかし、四週目長く続いた嘔吐と高熱。腫瘍が前より大きくなった。お腹に水がたまり、連日の激痛に悶絶苦悩の表情。モルヒネを大量に投与しても、苦渋の表情が彫る眉間の皺は消えなかった。17日金曜日Drのcallで説明を受けた。

6/13〜17の5日「CHASEプラスR」の投与。強い痛みと吐き気あり。抗がん剤投与後3日経ち小さくなったのか、腫瘍による痛みは抜けた。薬の利きがいいらしい。同時に白血球が急激に下がった。160。まだ1クールの経過観察中で、評価は1ケ月後。急変する可能性もある、とDrは言った。あとは生命力とのバランス。このまま、うまく乗っていって欲しい。

天国のおじいちゃんたち、おかあさんが生きたがってるの。力をください。一生に一度のお願いも三度ぐらいになるけど、お願いします。

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